覚悟はよいか

コロナウィルスが蔓延し稽古も思うようにできない昨今。
休会期間が長いためかモチベーションが保てない等の理由で退会される方も出てきている。
居合道を始められる理由、きっかけは人それぞれであるが、せっかく始めたものを”なぜ”と云う気持ちで大変残念に思う。
思えば、私が居合道の手ほどきを受ける中で、先生から稽古を継続するには、「少しのお金・家族の理解・継続する強い意志・仕事」が必要だ云われたことが今も鮮やかに思い起こされる。
稽古を継続できる環境は、日々刻々変化する社会情勢や経済情勢、個人の事情等々にもよって変わってくるであろうが、何より大切なことは「継続する強い意志」ではないかと思う。
以下は、
パナソニック創業者 松下幸之助翁の「指導者の条件」から一部引用。
失業や転職等家族にも相談できず一人心が折れそうになった時、何度も支えられた文章でもある。

事に臨んでイザというとき、うろたえもせず慌てもせず、ひごろの覚悟のほどを示して決然と、しかも悠揚として事にあたるということは、まずはお互いなかなか至難なことである。ことほどさように、つい日々をウカウカと過ごしていることにもなるわけで、だからイザ”覚悟はよいか”と問われたら、なすすべもなく茫然自失、悠揚決然どころでない。
しかしよく考えてみれば、日々の営みなかにおいて、おたがいに刻々に、その覚悟のほどを問われているわけで、たとえば今日のこの事態の中では、一歩家の外に出れば、いついかなる危難がふりかかるかわからず、すでにここにおいても、その覚悟が促されているわけである。
すべてのことにおいて、いろんな姿で刻々に”覚悟はよいか”と問われているのである。そのことを自ら察知して、自問するかしないかはその人の心がけ一つであろう。様々に激変する環境の中でつねに”覚悟はよいか”と問われていることを、お互い自覚したいものである。

私の学ぶ居合道は武道なのか、スポーツなのか、はたまた芸術なのか?
形が主体だけに学ぶ者の”姿勢”で大きく異なってくる。
現代居合道は昔のそれと比較し内容もやや形骸化してきていることは歪めないし、業によってはあまりにデフォルメ化され首を捻るものさえある。
そのような中でも私は武道としての居合道を追求している。
”武道としての居合道”は聊か奥が深い。恐らく一生かかってもその深淵には到達できないだろうほどに奥が深い。

どんな優れた人でも人間は必ず死ぬ!このことだけは誰も避けては通ることのできない”事実”でもある。
金も名誉もあの世には持って行けぬ。このことが判っていながら現世では欲にまみえた生活をしている。
武道の根源は人の死に方の問題でもあるという気がしている。
人の命は長いようで短い。
ならばこの命が燃え尽きるまでとことん求道心を以て稽古に取組み、少しでも居合道の深淵に触れたい。
せめて百尺竿頭の一歩を歩みたいものだ。こんなことをコロナの影響下で考えている。

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